私のことを、どうも文章を書くのが得意、あるいは好きだと勘違いしている人が多くて困る。文章など、できることなら書かなくて済ませようと子供のころからずっと思っていた。
高校生のとき、夏休みの宿題に読書感想文が出された。本を読む方はまだなんとかなっていたが、書くのは苦手で、なんとかうまい方法はないかと悩んだ。どこかの文集に載っている読書感想文を読んで、それを参考にして書けば何とかなるのではないかという悪知恵は働いた。地元の高校に進学しなかったため、私の出身中学校からの者は、途中で転校して高校が結局一緒になった者が 1 名いるだけで、同学年には他にいないかった。高校の国語の先生も、どうも私の中学のことはそれほど知らないようで、まさか中学の文集にいちいち目を通してはいないだろうと考えた。
中学の文集は、毎年 1 冊ずつ出され、 3 冊手元にあった。感想文を眺め、手を入れて提出できそうなもの、本も読めそうなものを選択した。結局、同学年の女子が書いていたヘルマン・ヘッセの「車輪の下」にした。本を読み、それから感想文に手を入れて、あたかも自分が考えて書いたように直して提出した。
しばらくして、現代国語の時間に原稿を返してくれた。国語、とりわけ現代国語の成績は散々だったが、その原稿用紙には丸がいっぱいついていた。高校で、現代国語で評価されたのは、この 1 回きりだった。
その後も、文章を書くのはそんなに好きではなかった。実験レポートを書くのは嫌いではなかったが、あくまで実験の報告であり、文章を書いているという気持ちはなかった。数学の証明や解説のために、延々と書くことはよくあった。しかし、あくまでもその程度であった。
連載の第 1 回で書いた BASIC コンパイラを雑誌の記事にしたいというので、なんとか分かりやすく書こうと四苦八苦した。雑誌別冊の冒頭の記事になり、思ったより評判もよく、つい記事を出した出版社に入ってしまった。最初はソフト開発だけだったが、コンピュータのことも分かるし文章も書けると誤解され、作家開拓、訳者開拓、記者会見への出席、記事書き、懸賞問題の連載、メーカーのマニュアル書き、テレビ番組のテキスト作りなどをやっている間に、なんだか現場で鍛えられてしまった。もちろん、その間に、本来のソフトウェア開発、ゲーム評価などの仕事もこなしていた。
出版社の内部にいたために、突然あと 30 分で原稿 1 本仕上げて欲しい、文章の量は雑誌の空きスペースにぴったり収まるようにという無茶苦茶な注文もやってきた。印刷する日になってから、そういう注文さえやってきたが、何とかしてしまう癖がついてしまった。
今もこうして文章を書いているが、決して好きな訳ではない。いつも代りに文章を書ける人を探しているが、いまだに代理が現れない。コンピュータ業界にはプログラムを書ける人はたくさんいるが、どうも文章を書ける人が少ないようだ。人より優れたプログラムを書くのは大変だと思うが、文章の方は、着々と書けるだけでも相当重宝されるのに、なかなかいない。業界ではテクニカルライターが非常に不足しているので、目指してはどうだろうか。プログラマよりも評価されると思う。