電脳春秋 – 〈第 15 回〉 電子立国日本の超 LSI 製造装置のミニコンは磁気コアだった


電脳春秋

執筆:H.F

〈第 15 回〉 電子立国日本の超 LSI 製造装置のミニコンは磁気コアだった

1970 年代後半、日本のコンピュータ業界、とりわけ半導体業界は、何とかアメリカに追い付き、追い抜こうと必死であり、官民協力しての国家プロジェクトが組まれていた。それが、本やビデオにもなっている 『 電子立国日本 』 である。当時は何も考えもせず、そのほんの一部に過ぎないものの、ちょっぴり参加してしまった。

コンピュータプログラマとして色々作り始めた頃であり、何も知らないままメーカーの研究所の中に連れていかれて、超 LSI 製造装置を制御するプログラムを開発することになってしまった。マイクロコンピュータ(まだパソコンという言葉は無かった)は自分で何台か持っていたが、企業で使用するような本格的なコンピュータを使った経験はなかった。

研究所の中の半導体研究所の 1 階に、半導体製造装置の試作中のものと、使うことになるコンピュータが置いてあった。ミニコン(ミニコンピュータ)ということであったが、幅 3 メーター、高さ 2 メーター、奥行き 1 メーターくらいあった。

メモリは、当時としては大容量の 256 KB であった。今なら 256 MB でも少ない感じだが、当時 256 KB というのは、極めて大容量と言えた。そのメモリが、なんと磁気コアでできていた。まだ半導体メモリだけでなく、磁気コアといって、ビーズくらいのドーナツ状の磁石にコイルを巻き付けて、 0 と 1 を書き込んだり、読み込んだりしていた。ビーズ 1 個で 1 ビット記憶するので、 256 KB のミニコンには、ビーズが 210 万個ほど使われていて、そのために大きな箱になっていた。

プログラムは、このコンピュータを使って作るのではなく、研究所の大型コンピュータを利用して作成し、できあがったプログラムを紙テープに書き込んでもらうのであった。書き込みといっても、昔のマンガなどを見ると出てくる、紙にぶつぶつと穴が開いた長い長いテープである。この打ち出された紙テープを、製造装置に繋がっているミニコンに読み込ませて、それから動作確認をするのである。もし、何か不具合があったら、大型コンピュータでプログラムを直し、紙テープを作ってもらっては読み込んで再テストの連続であった。

当時は、言うまでもないが、通信などそれほど発達していないため、紙テープと紙のカードが、今のフロッピーや CD – R の代りをしていた。長い間、こういう紙テープを使った仕事をしていると、紙テープの穴を見ると、何が書いてあるか分かるようになってしまうということであったが、私はとてもこのような面倒な作業には耐えられなくて、大型コンピュータを使うより、何時でも自由にコンピュータを使える仕事に傾斜していったのである。

そのうち電子立国日本を目指した各メーカーの研究装置が、あるメーカーの研究所の一角に集められ、そこで最終テストが行われた。それらは半導体製造工場建設へとつながって行ったのだが、その頃、私は日本ではまだ数台目という最新鋭のスーパーミンコンを使用する大学でのソフトウェアの研究開発の手伝いをしていた。研究責任者の机の上に、なにげなく磁気コアの小さなブロックが置かれていた。